卓話


日本の文化行政について−博物館を中心に−

2024年1月17日(水)

東京国立博物館
館長 藤原 誠氏


 私が東京国立博物館(以下、東博)の館長になって1年半経ちます。創立150周年の時で、最初の半年は記念式典の実施や東博所有の国宝をお見せする「国宝展」開催などに忙しく、慣れるまでに時間がかかりました。

その頃、じわじわと効いてきたのがロシアのウクライナ侵略によるエネルギー代の高騰です。東博は沢山の文化財を持ち収蔵しています。収蔵庫は常に一定の温度湿度をキープしないと成り立たないため、節約ができません。そうしたなかで電気代がどんどん嵩んでいきました。全体予算は約30億円で、うち光熱費は通常年間2億円ですが、その倍位かかることがわかりました。何とか予算を確保したいと思ったものの、なかなか国からの予算が付かずに困り、去年1月に文藝春秋に投稿して窮状を訴えたところ、来年度の予算はどうにか減らされずに済みました。

 そのように、昨年前半はお金を集めて財政基盤の強化に頑張りました。例えば、東博は国から予算が来ますが、東京都に所在しているにもかかわらず、これまで全く都庁とはご縁がありませんでした。そこで都や都議会に働きかけたところ、お陰さまで補助金をいただいています。

 寄付についても頑張っています。寄付会員制度は、個人、法人の両方があります。個人は年間5万円、20万円、100万円と3コース、法人の場合は年間20万円、100万円、1000万円があり、それに応じた様々な特典を準備しています。

 こうした営業努力をするようになったのは、150年の歴史があるこの博物館が今のままでは150年後に存続しているのかと不安になったためでした。国からの予算も増えませんし、今までのように文化財が好きなお客さんに来ていただくのをあぐらをかいて待っている、寄付金も寄付したい人が寄付してくれるというレベルではなく、ブランディング戦略も含めて知名度をより高め、若い世代も含めいろいろな方に来ていただく、あるいはぜひ文化財の保護のためにお金を寄付していただきたいという積極的な活動をやろうと考えました。

 今まで国立博物館には経営的センスは全くありませんでした。2001年の独立行政法人化後、多元的なファンディングをやらざるを得ない状況に追い込まれる中で、昨年後半からは経営が大事だ、いろいろな努力をして発展させようと言ってきましたが、全く職員に響きませんでした。それは、経営と運営との違い、おそらく犒弍牒瓩琉嫐がよくわからなかったためだと思います。今年から館内に経営企画室ができましたので、ここを起点に経営的に発展させたいと考えています。

 また、日本で一番歴史が古く最も文化財を所有している東博が、日本をリードして国際的展開もしなければならないと思っていますが、残念ながらこれまでは他国の博物館との間でMOUや連携協定を締結しているのは、韓国国立中央博物館、北京故宮院、上海博物館の3つしかありませんでした。

 もっと世界展開をしていこうと、以前、イスラム美術展を東博で行ったご縁があったマレーシアのイスラム美術館と、先般MOUを結んできました。それから今春、アメリカのスミソニアンとも連携協定を結ぼうとしているところです。

 ここから、東博の歴史を紹介します。1872年(明治5年)に、文部省が御茶ノ水の湯島聖堂で初めて博覧会を行ったのが東博の始まりです。1882年(明治15年)に今の上野公園に移っています。

 明治5年の博覧会の陳列品の中には、翌年開催されるウィーン万博の参加準備も兼ねたものがあり、その一つに、名古屋城の金の鯱がありました。江戸時代の権力の象徴でもあった名古屋城の金の鯱が、明治時代になって一般の人に身近な形になったことを象徴しているのではないかと言われています。当時の浮世絵師の一曜斎国輝によって描かれた『古今珎物集覧』という3枚組の錦絵を見ると、今で言う美術品の他にも、剥製・骨格見本、染織品・漆器・楽器・陶器類などが網羅的に並べられていたことがわかります。

 1881年(明治14年)、上野公園で第2回内国勧業博覧会が開催され、寛永寺本坊跡に、イギリスの建築家ジョサイア・コンドル設計の本館が建てられました。

 東博は最初は文部省、次に内務省の所管でしたが、その後、1889年(明治22年)には宮内省の所管となり「帝国博物館」、その後、「東京帝室博物館」に改称され、皇室のための博物館という性格を強めていきました。

 ところが1923年(大正12年)の関東大震災で旧本館が大破し、表慶館という大正天皇のご成婚記念で建てられたもののみが現存しています。今でこそ東博の展示ケースは全て免震装置が付いており、大きな地震が来ても耐えうるのですが当時かなりの文化財も破損しました。

 1928年(昭和3年)以降、本館の復興計画を立て、1932年(昭和7年)に着工。その後、経済不況や満州事変などが起き社会情勢が不安定になるなかで、1937年(昭和12年)に現在の本館が完成し、翌昭和13年11月10日に天皇陛下の大行幸を仰ぎ開館しました。建物は「日本趣味を基調とする東洋式」と称する帝冠様式です。1940年(昭和15年)には紀元2600年を記念して、正倉院御物特別展を実施しています。この本館の建物は2001年(平成13年)に重要文化財に指定されました。

 太平洋戦争、第二次世界大戦中、文化財は地方に疎開していました。一部展示活動もしていましたが、敷地内で畑を作ったりするような状況で、最終的には1945年(昭和20年)3月から休館になり終戦を迎えました。

 その後、1947年(昭和22年)に皇室の手を離れて国に移管されて再び文部省所管になり、1952年(昭和27年)には、名称が東京国立博物館となりました。

 1965年(昭和40年)には「ツタンカーメン展」を開催しました。当時の写真を見ると、今では考えられないような行列ができています。さらには1974年(昭和49年)の「モナ・リザ展」は、151万人の入館者数で東博歴代一位を記録しました。モナ・リザがフランスからアジアで展示をされたのはこの一回限りです。現在は、ルーブル美術館の永久展示品となっているため、二度と日本で観覧することのない歴史的な展覧会でした。

 それから平成の時代に入り一番人気を集めたのが、「阿修羅展」です。2009年(平成21年)に行い94万人の入館者がありました。それまでの仏像展示は正面からしか見えない展示だったのを、阿修羅像の3面の顔と6本の手を見て頂くために360度の展示をどこよりも先駆けて取り入れました。

 コロナ禍前はこうした形で特別展を行うとものすごい行列ができていたのですが、残念ながらそうした形では実施できなくなり、一昨年の国宝展も完全予約制になりました。

 次に東博の現在についてです。国立博物館は東博の他に、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館があり、2023年10月からは皇居の三の丸尚蔵館が5つ目として加わりました。

 博物館業務には文化財の収集、保存、公開があります。当然良い作品を集めて、収蔵品は修理して後世に伝えていかなくてはいけません。東博にも1000年前の紙の絵巻などがあり、それを1000年先にも伝えていく使命があります。非常に大変ですが、ずっとやり続けなくてはいけません。その時々の国民の皆様方に文化財をお見せして理解していただくことも欠かせません。

 収支については、令和3年までの収入実績は30億円程度でしたが、自己収入を一生懸命増やして40億円程度の収入になっています。普通の博物館・美術館で自己収入は2割から3割ですが、東博は頑張って4割は稼いでいます。

 フランスのルーブル、イギリスの大英、アメリカのメトロポリタン、中国、韓国の国立博物館といった他国を代表する博物館と予算規模や職員数を比較すると歴然とした差があります。中・韓とは半分から3分の1程度になり、ルーブル、大英、メトロポリタンと比較すると、5分の1から10分の1程度です。

 そのため、施設の有効活用をしています。裏庭にある日本家屋を活用しファッションショーなどさまざまなイベントを行っています。入館者数の推移は、コロナの影響でガクンと落ちた後、いま回復途上にあって、今年度は常設展でほぼ8、9割まで戻ってきている状況です。施設貸出業務は安定した収入源となるだけでなく、TVドラマや映画で利用されることで大きな広報効果を発揮しています。ドラマ『半沢直樹』で有名になりましたし、結婚式の前撮りなどが行われており、休館日や閉館後はかなり日程が埋まっています。

 グッズ販売の努力もしており、企業とコラボした商品開発もしています。『150年後の国宝展』と言っていずれ国宝になるようなものを展示するという新たな試み、また、キッズデーで子供たちへの配慮もしています。

 東博は全国の国宝の約1割に当たる89件を持っています。また、収蔵品の中で人気の高い『見返り美人』については昨年度クラウドファンディングで1000万円の目標で1500万円を集め、現在、修理をしている状況です。

 今、能登半島地震の救援義援金を集めています。国宝『松林図屛風』も人気トップクラスの作品で毎年、1月2日から2週間の限定展示を行っており、作者の長谷川等伯が能登半島にある七尾で生まれたご縁があるからです。本年については、今回の地震を受けた義援金の募金活動の実施ににあわせ、1月28日(日)まで展示期間を延長することにいたしました。東博は困っている人のためにも頑張っていることをご理解いただければと思います。


     ※2024年1月17日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。